42。隙間産業(沼5)

こんにちはこんばんは。

Ryoです。

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何やら妄ツイ界に不穏な空気が漂い始めた今日この頃。

 

今回は短編の場面について書きます。

或る画像を見て考える特定の場面ではなく、前提となる属性の様な場面についてです。

 

 

 

 

私が目指し、理想とする「日常的」な短編。

 

この「日常的」というのがそれにあたり、具体的にどういうものかを書こうと思います。

 

 

辞書に載っている「日常的」の意味は「普段よくある様」等ですが、私が短編に起こしたい「日常的」の意味は少し違い、

「場面と場面の隙間の場面」

という意味で捉えています。

 

 

 

 

少し前、かの有名なチコちゃんが

「歳を取ると時間が速く進む様に感じるのは、物事に対して感動しなくなるから」

と言っていました。

 

経験済みの事には、脳が感動も記憶もしなくなり結果的に時間が速く過ぎたと錯覚する現象に陥るんだそうです。

 

 

「隙間の場面」とは正にこの

「脳が感動も記憶もしなかった場面」を指し、

 

中長編で例えるなら、起承転結で描かれたプロローグやクライマックスやエピローグではなく、

「描かれなかった場面」

「描く価値のない場面」

に該当します。

 

(「場面と場面の隙間の場面」の

“ 場面と場面 ” の部分は

“ 記憶に残る様な感動した二つの場面 ”です。)

 

短編を書くのだから、中長編では描かれない場面である方が良いですよね。

 

 

記憶も感動もせずただ過ぎてしまった場面だからこその自然な場面がそこにあり、

中長編で描かれなかった場面にはその中長編の隠れた別の面が見えてきます。

 

こういった理由から私は「日常的」な短編を書こうとしています。

 

 

 

記憶せずただ過ぎてしまった場面。

確かにあったはずの忘れ去られた、記憶と感動を繋ぐそれを短編として掘り起こす。

 

忘れてしまっているものを思い出す事は難しく、だから余計に「日常的」な短編を書く事は難しいんでしょう。

 

あくまでも私の理想なので、今までにそれが出来た短編はほとんど無い様な気がします。

 

 

 

 

…また訳の分からないブログを書いてしまいました。短編ばっかり書いていると可笑しな所をディープに考えてしまう様になるんでしょうかね…

 

たぶん私だけでしょうけど…

 

 

また書きます。

 

それでは。